The Witcher 3 : Wild Hunt Part-7
予告通り「森の貴婦人たち」を攻略中。
キーラから聞かされていた3人の魔女には実体がなく、タペストリーに縫い込まれた存在だった。
しかしこれがホーンテッドマンションのように動いたり喋ったりするわけでもない。
どのようにしてコンタクトを取るかというと、、、
イタコの口寄せである。 参考:口寄せ - Wikipedia
このイタコ婆さんを通じて3人の魔女と会話することになるのだが、実はここに至るまではいくつかのクエストをこなす必要があった。
途中、戦災孤児の子供たちとかくれんぼするシーンで律儀に数を数えるゲラルト鬼さん、もーいいかい?まーだだよ?
そして森の精霊ともいうべきゴドリング(ジョニー)との遭遇。
彼はまるでゾンビのような肌の質感だが、敵ではない。
図鑑で調べてみると細かい説明が書かれていたが、要するに日本でいうところの座敷童的存在だ。
この件に限った話ではないが、洋物RPG特有の設定の細かさには時々恐怖すら感じることもある。
何でもないようなモブキャラが誰かの親戚であるとか、どこかの古い友人であるとか、こちらの知らないところで裏で繋がっていたりするし、そもそも本作のようなハイファンタジー系の物語だとその設定量も膨大だろう。
人間が、エルフが、ドワーフが、などという現実離れした異世界にプレイヤーは放り込まれるわけで、会話にしてもスタート直後は意味が分からない場合が多々ある。
これを不親切とみるか、それとも確固たる世界観の構築とみるか、それは各々のプレイヤー次第であろう。
私としては全て1から10まで言葉で説明してしまう日本のRPGよりもずっと居心地は良い。
これはゲームに限らず、映画にしても同じだ。
邦画は説明過多な描写が多過ぎる。
なぜそんなに説明したがるのか。
親切心は時として余計なお節介ではないだろうか。
観客を突き放すのもそれはそれで問題だが、洋画「インセプション」のような作品を我々日本人はもっと評価するべきで、作り手側も大いに参考にして頂きたいと切に願う。
さて、ゴドリングのジョニーとは一旦お別れとなったのだが、もしかするとまた別のクエストで再会するかもしれない。
今回の短いクエストのみでは可哀想なぐらいに愛嬌のある良キャラである。
まさかとは思うが、敵対することも?
そんな妄想が出来るのもプレイヤーに思考の余地を残す設定と演出の賜物。
そうだ、日本の映画関係者は今すぐ本作をプレイするべきなのだ。
つづく